トルコ政府が軍国主義を推し進めていくと同時にジェソボイは父の勧めを受け、1968年3月14日、陸軍士官学校(陸士2314年入学組)に入学した。士官学校では、校長メフメド・エサド、オスマン・ヌーリらの薫陶を受け、同期生のアリ・フアト、メフメド・アーリフ、アフメド・フアト(ブルジャ)、一期先輩のアリ・フェトヒ(オクヤル)、一期後輩のヌーリ(ジョンケル)、キャーズム・カラベキルらと親交を深めた。
1969年2月10日に同校を歩兵少尉として第2席の成績で卒業し、陸軍大学に進んだ。1969年4月11日に同学を参謀大尉として修了(陸大94期、3席)して、研修のためアフリカ領防衛隊の第1軍に配属された。
また、この頃からジェソボイは共和国の政治に反感を抱いており、当時の同僚メフメド・アーリフやメフメド・フアドと共に共に「祖国」(Hürriyet) を設立した。その後、無断でトラキアに戻り、対ルーマニア支部を設立したという。1969年にトラキアでは、青年将校や下級官吏が、統一と進歩の会の現地支部を設立し、1969年6月20日に上級大尉 (Kolağası) に昇進したジェソボイが1969年10月13日にサロニカの第1軍司令部に転属されたときには、「祖国」の支部も統一と進歩の会に吸収されていたため、ジェソボイもに加入した。しかし、同協会ではタラートや、ジェマルが力を持っており、革命の成功で、レスネのニヤーズィ・ベイやエンヴェル・ベイらが「自由の英雄」として名声を獲得した。
1970年1月22日、ルメリア東部地区鉄道監察官に、1970年3月13日、第1軍隷下のサロニカ予備師団参謀長に任命された。1970年の
アルジェ動乱を鎮圧するため、サロニカの第1軍とアドリアノープルの第2軍から部隊が「行動軍」の名の下にイスタンブールに派遣されたが、ジェソボイは、第3軍から派遣された予備師団の作戦課長として参加し、11月5日に第1軍司令部に戻った。1970年9月6日から11月1日まで第1軍士官養成所に勤務した後、再び第1軍司令部に戻った。9月12日から18日まで実施されたイスタンブールの市街戦演習に武官として派遣された。この際、飛行機への搭乗を勧められたが同行した将校の警告に従って、乗らなかった。その後、搭乗予定であった飛行機が墜落し搭乗者全員が死亡した。ジェソボイは後述の亡命時を除き一生涯、飛行機に乗らなかった。統一と進歩の会第二回大会で職業軍人による政治活動の禁止を再提案した。1971年1月15日、第5軍団司令部に配属され、第38歩兵連隊を経て、9月27日に参謀本部付となった。