軍事
山岳兵40師団
機甲8師団
ステルス戦闘機1000
概要
1944年:ヨシップ・ブロズ(以下チトー)率いるレジスタンスがナチスドイツを追い払う。その後、チトーが大統領としてセルビア・モンテネグロ・マケドニア連邦政府を樹立。クロアチア独立国に宣戦を布告。ボスニア等の旧ユーゴスラビア構成国の支持を集め3か月でザグレブを占拠、クロアチアを併合しチトー大統領は「ユーゴスラビア連邦共和国」の成立を宣言。
1945年:ユーゴスラビア政府はスロベニアに進軍。ほとんど抵抗なく当該国を占拠すると本土への編入を宣言。連合国への加盟を申請するも社会主義的政治体制を理由に拒否。その1週間後にソビエト政府と協定を締結し、アルバニアへ進駐。連合国は抗議するもソ連がこれを容認していたため強気にでることはなかった。その2ヶ月後、ナチス降伏。
講和会議においてユーゴスラビアはアルバニアの領有を主張し、ソ連がそれを支援。チャーチルはアルバニアについてのスターリンとの取り決めがなく、またソビエトに融和的だったF.ルーズベルトの支持もありこの点において譲歩するよりなかった。
スロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア、モンテネグロ、マケドニア、アルバニアよりなる「ユーゴスラビア社会主義連邦共和国」の成立を宣言。
1950年:東西冷戦が広がる中チトーは中立を宣言。以後数年間にわたりソビエトはチトーの暗殺を計画するも悉く失敗し断念する。
1979年:アフガニスタン侵攻に対し初めてソ連を公式に批判。
1990年:ブルガリア内戦発生。共産主義側はソ連に援助を要請したが拒否された。ユーゴスラビア政府は共産主義側に対し突如出兵。名分は内戦の鎮圧だった。
1991年:ブルガリア内戦終結。共産側の勝利。ただしユーゴスラビアに対し非常に多額の借金を抱え込んだため、半年後国家財産をすべて凍結。ユーゴスラビアに政府含む全権が支払われた。また、国民投票を経て国名を「バルカン社会主義共和国連邦」に変更。
1992年:チトー死亡。その後葬儀前に突如復活。再び政治の座にもどる。