ユーラシア国家運営Wiki - シャウ・デぺ・アグアルス
シャウ・デぺ・アグアルスとは、アンゴラの独立運動家、銃器設計者、政治家、FDER元会長、元国粋党党首である。
また、シャウ・アグアルスとも呼ばれる。
シャウ・デぺ・アグアルス
Shoau Tepe Agualus
※画像は肖像画


経歴

生い立ち

1942年に出生。
当時はまだポルトガルの植民地だったアンゴラで出生。
当時の記録などはほぼ残っていないため、詳しい生い立ちは不明であり、本人も「知wらwなwいwよw」と答えている。
その後ポルトガル本国への留学を試みるが、当時の白人優位価値観もあり失敗。

独立戦争へ

1966年、アンゴラ独立運動が活発化し、10月末には独立を宣言しポルトガルへ宣戦。
以後長く続くアンゴラ独立戦争へと発展する。
この時彼は「チェスが得意だったから」という理由で現地独自の独立運動の指揮官に選ばれたが、
彼は「できないだろ!いい加減にしろ!」と一蹴している。
1969年、密輸品のAK-47コピー品をアンゴラ人が使いやすくするように改良し、自分が(一応)指揮をしていた(任せていたが)部隊に使わせたところ、大好評。
また当時の支援国が大量に送り付けていた拳銃弾を有効活用できないか(AKを送るくせにAKの弾薬の割合は少なかった)と考えた結果、独自兵器の開発を構想するに至る。

解放銃

1971年5月、ついに解放銃:今のRDM-14を完成させ、当時の独立勢力のUNITAに生産の話を取り付けることに成功。
同年8月に15丁が試作され、自分が(一応)指揮をしていた部隊に使わせた。
結果、著しく戦績が向上し、軍部に大量生産を認めさせる。
(RDA-14は5000〜8000EPで1丁)
解放銃の恐ろしい発射レート(MG42の3分の2)を有効活用したジャングルでのゲリラ戦はポルトガル軍を震撼させ
「アグアルスのチェーンソー」と呼ばれた。

独立、そして大統領へ

1974年、ポルトガル政府と講和、アンゴラ国誕生。
それと同時に第一回「アンゴラ人のための」選挙が行われ、民主主義や社会主義派を押しのけ大統領に就任。
彼は就任後、迫害されかけていたポルトガル系アンゴラ人のアンゴラへの帰属、および同等の人権を認め、
政府主導の大々的な復興計画を指導。また軍備増強にも力を入れ、ルエナ造兵局、
アンゴラ初の国産ライフル「RDA-18」を完成させた。

素材戦争

1979年、素材戦争
ケバブとの交渉に全力だった彼だが、ケバブ皇帝が激おこだったため失敗。しょうがないね。
その後航空支援や独立戦争と似たゲリラ戦を展開しケバブ軍に多大な損害を生じさせるも敗北。
この戦争時アンゴラ軍砲兵が装備していた「C-18」は彼の弟子が設計しており、それを見た彼は「何だこれは…たまげたなぁ」とつぶやいていた。
敗戦後は過酷な講和条約を飲まされ、次の選挙では民主党が勝利しあえなく失脚。

ルエナ造兵局

1980年、大統領シャ・ムゲームの令でルエナ造兵局局長に就任。
1984年のジャイアニストによる造兵局の民営化などもあったが、RDA-18A1、RDA-24、SH-23などの名作銃を次々と生み出していった。
またそのころから「アンゴラが勝つには強い戦車が必要だ」と考え、YJS-24G主力戦車を設計。
シャウさんお得意のいつでもどこでも動く信頼性を備えた現代戦車だったが同じFDERの戦車である「TD-22N」にトライアルでは負けた。
しかしその年後の1985年、C-18自走砲の近代化改修用にYJS-24Gの車体が使われることになった。

いま

1988年、FDER(元ルエナ造兵局)を退職。
しかしすぐにFDERに入社、新社長が「何やってるんだよ」と聞くと、
彼は「社長、会計ばっかでつまんない!」と叫んだという。