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オーストリア内戦

概要

オーストリア内戦(オーストリアないせん、ドイツ語:Österreichischer Bürgerkrieg)は、2019年4月9日に起きたオーストリア革命を発端としてオーストリアにおいて争われた内戦である。一方の当事者は中道右派政府とボヘミア軍で、もう一方は当時のオーストリアにおける最大のレジスタンス組織であった共産主義ゲリラオーストリア赤軍(英語版)で、オーストリア共産党の指導下にあった。
厳密には第二次オーストリア内戦とも呼ばれており、当記事では同年4月14日の第三次オーストリア内戦についても言及する。
第二次オーストリア内戦
参戦国
オーストリア・ハンガリー二重帝国オーストリア共産党
扇動:かい人10面そう
結果
オーストリア赤軍降伏

経緯

オーストリア・ハンガリー二重帝国は2月28日のハプスブルク内乱*1に引き続いて3月12日から開始された第二次独墺戦争、ならびに4月5日に発生したシュヴェヒャト地区セルビア人暴動の発生によりオーストリア国内は疲弊していた。
この時からオーストリア国内では赤化を望む声がちらほらみられ、社会不安が高まっていたことがわかる。

かい人10面そうからの犯行声明

かい人10面相は4月9日、突如としてオーストリア政府に対して犯行予告を送信
わい は
かい人10面そう や
いま インスブルック にきておる
ここ は オーストリア 有すうのふあんていなとこや
オーストリア は民族のおけ や
わいが じんみんのもとに 救済 したる
つぎの標的は オーストリア や
15:30のしんぶん を見ることやで
これに対してオーストリア国防戦略情報本部は即時の軍出動を命令した。
15:57分、オーストリア国防戦略情報本部が爆破される。
同時刻から首都ウィーンでは大規模停電が発生、また王宮が放火される。
再びオーストリア政府に犯行声明が送付される。
どうだ おもいしったか オーストリアの どあほども
ショウはまだ これからや
人民のちから おもいしるがいいで
わいと示だん したいなら 15ちょうと ヘリをよこせ
みがらも あんぜんにしろ
オーストリアせいふのちからが ためされるで
これに対してオーストリア政府はウィーン郊外の新地熱発電所建設を進めたほか王宮の消火を実行。リンツにSIV臨時本部を設立して軍を出動させインスブルック包囲を命令した。

オーストリア軍壊滅

オーストリア政府の情報部に不正アクセスが発生。インスブルック駐屯地から包囲に向かうオーストリア軍の一連のタイムラインが筒抜けとなってしまう事態が発生。
オーストリア軍は即座に暗号化を行ったものの情報の抜き取りは完了しており、インスブルック駐屯地への連絡も遅れてしまう。
オーストリア赤軍は4月9日、夜闇に紛れて無防備のインスブルック駐屯地に侵入。ほぼ無抵抗のまま戦車30両以上を含む多数の将兵を殺害しインスブルック攻撃部隊を壊滅させた。

オーストリア内戦

この大惨事に対しオーストリアは亡命を決断。ハンガリーに自由オーストリア亡命政府を設立し皇帝にカール14世を戴冠させた。
これに対して旧オーストリア全土を確保したオーストリア共産党はドナウ社会主義共和国連邦の建国を宣言する。
オーストリア赤軍はウィーン川ならびにドナウ川に堤防を建築して水量を調節するなどの工作を図るほか、ウィーン郊外のフロイデナウ水力発電所に爆薬を仕掛けるなどして要塞化を推し進めた。
4月13日、自由オーストリア亡命政府軍はハンガリー国境のドナウ川を渡河するべく侵攻を開始した。
赤軍はドナウ川を渡河する政府軍に対してドナウ堤防を破壊。鉄砲水で押し流すことで人的被害を拡大させる。
この点においてオーストリア赤軍は1:10にも及ぶキルレートを達成していた。

終結

オーストリア赤軍の本拠地であったインスブルックで反赤化運動が激化。オーストリア赤軍の接収したインスブルック駐屯地に爆薬が仕掛けられてその兵員の大半が死亡する事件が発生する。
これによってインスブルックの人心を失ったオーストリア赤軍司令官ハイレ・ヨーズフは赤色革命に絶望し、即日オーストリア政府に降伏した。

結果

オーストリア赤軍の残存兵60師団はオーストリア政府に編入された。
しかしオーストリア国内のインフラ整備は遅々として進まず、第三次オーストリア内戦で浮き彫りとなることとなる

第三次オーストリア内戦

第三次オーストリア内戦
参戦国
オーストリア・ハンガリー二重帝国フリーメイソン
王党派民兵
結果
現在も継続中

経緯

第二次オーストリア内戦のあとのオーストリアは、赤色革命の発生を「かい人10面そうの扇動によるもの」とのみ判断し、国民感情に配慮したインフラ整備を一向に行ってこなかった。
また外交の場ではオランダならびにEM諸国に対する挑発的外交が目につき、これがオランダ高官の口を通じて秘密結社フリーメイソンに伝わった。

暴動発生

フリーメイソンはまずハンガリーで暴動を発生させたものとされる。
ハンガリーで発生した赤化暴動をウィーンや各地に輸送してオーストリア国内での革命を図った。

オーストリアの対応

ウィーンの国際戦略情報本部に対して国際テロ組織ファム・エル・フートがオーストリア銀行の口座情報を抜き取る。
これにオーストリアは対応することができず、狙いすましたかのように発生した暴動によって対応が後手後手に回された。
暴徒はオーストリア国立銀行や博物館を占拠し、私有財産を処分した。

オーストリア国軍接収と反フリーメイソン運動

フリーメイソンはコペル港とウィーン国際空港に駐屯していたオーストリア・ボヘミア空海軍を接収し、オーストリアの陥落を宣言
これにオーストリア国内では反フリーメイソン運動ならびに王党派による抗議デモが勃発した。

フリーメイソンの解散と現状

そんな中、フリーメイソンは突如として解散を宣言。軍の指揮権を返還したほか、処分したと思われていた財産をすべて放棄した*2
しかし王党派による抗議デモは継続し続け、先鋭化したデモ隊とオーストリア政府との間で現在でも内戦状態が継続している。