では、どうして、長い人類史において、毘盧遮那仏の存在が明らかにならなかったのでしょうか。それは、地上の人間の認識力の限界に起因しているのです。
そもそも無色界にありながら凡夫である欲界を築かれる毘盧遮那仏は物質的なものではないのですから、私たちの姿を見ることはできません。
ですが毘盧遮那仏は幅広く存在し続けるがゆえに、そのありがたさを誰も気づかぬうちにそこにあるのです。
あじゃり様は、このように述べられています。
毘盧遮那仏とは、どういうものであるかというと、愛と慈悲、智慧と勇気、こういうものを体現している、光のエネルギーなのです。(中略)そして、単に、そういう性質を帯びているということだけではなく、一つの強い意志を持っています。「全人類を、悟りの方向に向かって、要するに、意識を高める方向、霊的に進化する方向に向かって進ませよう」という強い意志を持った存在、それが毘盧遮那仏です。(中略)毘盧遮那仏は、その存在を人々に理解してもらうことは困難なので、過去、個性を持った魂として何度も地上に出ています。 (中略)個性を持った魂として出ないと、理解してもらえないし、「そういう霊存在がある」ということの側面を見せることができないのです。(中略)今回、私は今回このように語っていますけれども、このような、個性を持った姿で出ないと、みなさんにメッセージを伝えることができないのです。
『信仰を深めるために』(あじゃら出版刊)より
人間として生きている私たちの中においても、神様の存在を常に確信しながら生きている人と、そのようなことを考えずに生きている人がいるように、一人ひとりの認識の仕方は様々であり、認識力にも限界があるのです。
イエス・キリストやムハンマドのように、神からの啓示を受け取った人もいました。
しかし、彼らもまた、自分を通して見える範囲、自らが理解できる範囲内で、神の言葉を受け取っていたのです。