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ペルシアの大動乱

''ペルシアの大動乱とは、ケバブ帝国・ペルシアの時代区分の一つ。特に断りがない限り一般的に1670年のクスルーム・イズファハンの反乱からケェヌバース大王?によるペルシア統一(1683年)の時代までを指す。
1670年、クスルームがサファヴィー朝に対し反乱を起こし、それ以降約13年に渡る内乱状態がペルシア全土・アゼルバイジャン内で発生した。
また、凶作や戦乱による食料不足などで数々の集落が大飢饉に見舞われ、約13年という短い期間ながら民間人と兵士を含めて14万人が死ぬという状態に陥った。
ペルシアの大動乱
年月日:1670年から1683年
場所:ペルシア全土
結果:ケェヌバースがペルシアを統一、前期センバブ朝ケバブ帝国を建国する

背景

1666年10月に父が亡くなり、11月1日に即位してサフィー2世と名乗ったが、疫病・飢餓・地震と災害続きで北のコサック侵入、東のウズベク再襲撃にも見舞われ、サフィー2世自身も病気に倒れた。こうした事態は即位式の日取りに問題があったとされ、1668年3月20日に改めて即位式が挙行されスライマーンと改名した。しかしスライマーンは後宮育ちの怠惰で無能な人物であり、政治を大臣に丸投げして酒と女に溺れて自堕落な日々を過ごした。
だが、宮廷に引き籠ると後宮の女性や宦官に信頼を寄せていったため、宦官達がシャーの信頼を楯に政治に介入、大臣達の命令を覆して私欲に走る事態となり、浪費ばかりする宮廷の費用は増大し領民は重税に苦しみ、軍も弱体化してカスピ海を荒らし回るコサックのステンカ・ラージンやホラーサーンに侵攻するウズベクに成す術が無くサファヴィー朝は衰退に向かっていった。
こうした環境の中、ある一人の小商人が大勢の軍隊を率いて王朝に叛旗を翻す。その名も、クスルーム・サヒー。

クスルーム・イズファハンの反乱

ブシェーブルの市場で商人をやっていたクスルームは、ある日その功績を認められてアッバース2世の廟作りへ使う労働者の引率係を任せられる。
しかし、ペルシャ湾沿いに位置しているクスルームのブシェーブルから廟の建設をするゴムまでは30日とかなり距離がかかり、
道中逃走者が続出していった。
こんな中、イズファハンの市街の中でクスルームはある事を考える。
「逃走者の責任を問われて自分は処刑されてしまうのではないか」と。
当時のサファヴィー朝の律は厳しく、特に皇帝に関する罪を犯したものはかなり重い罪を課せられ、中には死刑という罪状もあった。
出動時点で30,000だった労働者を率いることは統率が上手いと評されるクスルームでも難しく、クスルームの補佐を務める係も苦悩していた。
考えついた末、14,000に減ったクスルーム隊はゴムではなくイズファハンを最終目的とする。
これにはクスルームの狙いがあることを、まだ誰も知らなかった。
クスルームはイズファハーンの見渡しがいい建物を占拠し、屋上の上に立つと、イズファハンの市民らへ集合を呼びかけた。
その声に誘われたイズファハンの住民たちはおぞおぞとクスルームの頭を見る。
そして、突然クスルームはこう叫んだ。
「召めして徒属とぞくに令れいして曰いわく、公等こうら雨あめに遇あい、皆みな已すでに期きを失うしなえり。期きを失うしなうは斬ざんに当あたる。藉たとい第ただ斬きらるること毋なからしむとも、戍じゅの死しする者ものは、固まことに十じゅうに六七ろくしちなり。且かつ壮士そうし死しせずんば即すなわち已やまん。死しせば即すなわち大名たいめいを挙あげんのみ。王侯おうこう将相しょうしょう寧いずくんぞ種しゅ有あらんや、と。徒属とぞく皆みな曰いわく、敬つつしみて命めいを受うけん!」
クスルームは叛乱を目論んだ。後には下がれなくなったのだ。
重税を化されていた住民たちはこの演説に呼応し、直ちに兵を挙げた。
続々と住民らは武器を持ち、クスルームへ味方した。
これにより、約50,000の兵を持つクスルームが軍閥として挙兵したのだ。

クスルーム討伐戦

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