チリ連邦(通称:チリ)とは、南アメリカ大陸・南部に位置する立憲君主制国家である。
北にボリバルの大インカ帝国、東にブラジル帝国?、南にフエゴ社会主義共和国?と隣接している。
首都はサンディアゴ。1818年にスペインより独立した。国土の大部分がコーノ・スールの域内に収まる。太平洋上に浮かぶフアン・フェルナンデス諸島や、サン・フェリクス島、サン・アンブロシオ島及びポリネシアのサラ・イ・ゴメス島、パスクア島(イースター島)などの離島も領有している。
史実では、ラテンアメリカでは最も経済・生活水準が安定し、政治や労働でも最高度の自由を保っているとされる。但し、国民の所得格差は大きい。
目次:
文献:
wikipedia 「チリ」 URL→https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%AA
本日、偉大なる政府首班を始めとする189名の団体がチリに到着、ここに「チリ連邦政府」の設立を宣言します!
また、このチリの土地は偉大なるインカ帝国から無償にて割譲していただいたものであります!
最大限の感謝を表明いたします!
チリ連邦建国宣言: 国王デリー・サンディ
2000年 6月8日、189人からなる「チリ連邦政府団」がサンディエゴに到着、
即日ボリバルの大インカ帝国首班と話し合いを始め、偉大なるボリバルの大インカ帝国より無償にて代表団がこのチリの国土を割譲。
翌日6月9日には、立憲君主制を宣言し国王に「デリー・サンディ」、首相に「フェルナンデス・ゴーゴ」が着任した。
また、同日南米同盟?に加盟した。
経済大国を目指すために様々な団体から資金を援助または借入している。
北にボリバルの大インカ帝国、東にブラジル帝国?、南にフエゴ社会主義共和国?と隣接している。
首都はサンディアゴ。1818年にスペインより独立した。国土の大部分がコーノ・スールの域内に収まる。太平洋上に浮かぶフアン・フェルナンデス諸島や、サン・フェリクス島、サン・アンブロシオ島及びポリネシアのサラ・イ・ゴメス島、パスクア島(イースター島)などの離島も領有している。
史実では、ラテンアメリカでは最も経済・生活水準が安定し、政治や労働でも最高度の自由を保っているとされる。但し、国民の所得格差は大きい。
目次:
文献:
wikipedia 「チリ」 URL→https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%AA
日本語の表記はチリ連邦。通称チリ。かつては「チリー」と表記されていたこともあった。漢字表記は智利。日本語での初出は、西川如見『増補華夷通商考』(1708年、宝永5年)に「チイカ」として紹介されるものとされる。
その後の江戸時代の文献では、谷川士清『倭訓栞』、斎藤彦麻呂『傍廂』が、それぞれ「智加」という漢字表記を用いている。
国名の由来は諸説ある。植民地時代初期は「Chili」と表記されていたが、17世紀のスペイン人史家ディエゴ・デ・ロサーレス(英語版)によると、インカ人によるアコンカグアにある渓谷の呼称で、元は15世紀にインカ帝国に征服される前
、同地を支配していた先住民ピクンチェ族の族長、「ティリ(Tili)」から転じたものとされている。この他、先住民の言葉で「地の果て」、「カモメ」、ケチュア語で「寒い」を意味する「Chiri」、
「雪」もしくは「地上最深の場所」を意味する「Tchili」、マプチェ族の言葉で同地に生息する鳥の鳴き声を表す擬音語「cheele-cheele」に由来する、などである。
その後の江戸時代の文献では、谷川士清『倭訓栞』、斎藤彦麻呂『傍廂』が、それぞれ「智加」という漢字表記を用いている。
国名の由来は諸説ある。植民地時代初期は「Chili」と表記されていたが、17世紀のスペイン人史家ディエゴ・デ・ロサーレス(英語版)によると、インカ人によるアコンカグアにある渓谷の呼称で、元は15世紀にインカ帝国に征服される前
、同地を支配していた先住民ピクンチェ族の族長、「ティリ(Tili)」から転じたものとされている。この他、先住民の言葉で「地の果て」、「カモメ」、ケチュア語で「寒い」を意味する「Chiri」、
「雪」もしくは「地上最深の場所」を意味する「Tchili」、マプチェ族の言葉で同地に生息する鳥の鳴き声を表す擬音語「cheele-cheele」に由来する、などである。
ヨーロッパ人がこの地を訪れる以前の先コロンブス期には、チリの中央部や南部には先住民のマプチェ族やその系統のピクンチェ族などが居住しており、また、ポリネシア系の住人が太平洋を東に渡って上陸していた可能性も指摘されている。
15世紀に入ると、クスコを拠点に拡大したケチュア人のインカ帝国の皇帝トゥパク・インカ・ユパンキやワイナ・カパックらの征服により、北部は組み込まれたが、マウレ川付近で帝国はマプチェ族の激しい抵抗に遭遇した。
トゥパク・インカ・ユパンキの率いる軍はマウレの戦いでマプチェ族の軍に敗れ南部への拡大は停止、マプチェ族が支配し続けることになった。
一方本土から遥か西のパスクア島には、ポリネシア系のラパ・ヌイ人(スペイン語版、英語版)によってラパ・ヌイ文化が築かれ、モアイ像が多数建設された。
15世紀に入ると、クスコを拠点に拡大したケチュア人のインカ帝国の皇帝トゥパク・インカ・ユパンキやワイナ・カパックらの征服により、北部は組み込まれたが、マウレ川付近で帝国はマプチェ族の激しい抵抗に遭遇した。
トゥパク・インカ・ユパンキの率いる軍はマウレの戦いでマプチェ族の軍に敗れ南部への拡大は停止、マプチェ族が支配し続けることになった。
一方本土から遥か西のパスクア島には、ポリネシア系のラパ・ヌイ人(スペイン語版、英語版)によってラパ・ヌイ文化が築かれ、モアイ像が多数建設された。
1492年、クリストファー・コロンブスがアメリカ大陸に到達すると、南米にもヨーロッパ人の到来が始まった。最初に現在のチリとなっている領域を訪れたのは、ポルトガル人の探検家、フェルナン・デ・マガリャンイスだった。彼は1520年、チリとアルゼンチンの最南部のマゼラン海峡に到達した。
1532年、インカ帝国の皇帝アタワルパが、スペイン人の征服者フランシスコ・ピサロらによって処刑され、事実上崩壊すると、1535年にディエゴ・デ・アルマグロがペルー方面からチリに遠征した。彼の遠征は失敗したが、続いて1539年にはペドロ・デ・バルディビアがピサロの命により侵攻した。彼はかつてインカ帝国が支配していた地域の征服にはさしたる抵抗もなく成功、1541年に中央部に辿りつき、サンティアゴ・デ・チレを建設して植民地化を進めたが、南部ではスペイン人の戦術を取り入れたマプチェ族の軍事指導者・ラウタロが激しく抵抗、スペイン勢は敗れ、バルディビアも1552年にラウタロに捕らえられ戦死した。
その後、スペイン人は南部植民地化を進めようと兵を送るが、ラウタロの死後もカウポリカンやコロコロといったマプチェ族の戦士達の激しい抵抗によりアラウコ戦争が継続され、
以降チリ植民地は300年間に亘ってビオビオ川を境界線にしてスペイン人とマプチェ族の断続的な戦争状態が続くこととなった。1541年に創設されたチリ総督領はペルー副王領に組み込まれ、1565年にコンセプシオンにアウディエンシアが設立された。
このように植民地時代のチリでは先住民との戦いや、海賊の襲撃による断続的な戦いが続いた。山脈や砂漠により、周辺地域から遮られた孤島のような地形のチリでの主産業は、
ペルー向けの小麦の生産などとなった。これは入植者に地道で手間のかかる農業を厭わない堅実な気質を育み、徐々に独自の経済圏としてのアイデンティティを確立していくことになった。
1776年、ボルボン改革によってペルー副王領からリオ・デ・ラ・プラタ副王領が分離されると、理論上ではチリ総督領が領有していたとされた、
現在アルゼンチン領となっている部分も含めてのパタゴニア全土がラ・プラタ副王領の管轄下に入り、チリの国土は現在の「刀の鞘」のように細長くなった。
1532年、インカ帝国の皇帝アタワルパが、スペイン人の征服者フランシスコ・ピサロらによって処刑され、事実上崩壊すると、1535年にディエゴ・デ・アルマグロがペルー方面からチリに遠征した。彼の遠征は失敗したが、続いて1539年にはペドロ・デ・バルディビアがピサロの命により侵攻した。彼はかつてインカ帝国が支配していた地域の征服にはさしたる抵抗もなく成功、1541年に中央部に辿りつき、サンティアゴ・デ・チレを建設して植民地化を進めたが、南部ではスペイン人の戦術を取り入れたマプチェ族の軍事指導者・ラウタロが激しく抵抗、スペイン勢は敗れ、バルディビアも1552年にラウタロに捕らえられ戦死した。
その後、スペイン人は南部植民地化を進めようと兵を送るが、ラウタロの死後もカウポリカンやコロコロといったマプチェ族の戦士達の激しい抵抗によりアラウコ戦争が継続され、
以降チリ植民地は300年間に亘ってビオビオ川を境界線にしてスペイン人とマプチェ族の断続的な戦争状態が続くこととなった。1541年に創設されたチリ総督領はペルー副王領に組み込まれ、1565年にコンセプシオンにアウディエンシアが設立された。
このように植民地時代のチリでは先住民との戦いや、海賊の襲撃による断続的な戦いが続いた。山脈や砂漠により、周辺地域から遮られた孤島のような地形のチリでの主産業は、
ペルー向けの小麦の生産などとなった。これは入植者に地道で手間のかかる農業を厭わない堅実な気質を育み、徐々に独自の経済圏としてのアイデンティティを確立していくことになった。
1776年、ボルボン改革によってペルー副王領からリオ・デ・ラ・プラタ副王領が分離されると、理論上ではチリ総督領が領有していたとされた、
現在アルゼンチン領となっている部分も含めてのパタゴニア全土がラ・プラタ副王領の管轄下に入り、チリの国土は現在の「刀の鞘」のように細長くなった。
16世紀以来チリはスペインの植民地であったが、ナポレオン戦争によるヨーロッパの混乱と、フランス皇帝ナポレオン・ボナパルトが兄のジョゼフ・ボナパルトをスペイン王ホセ1世に据えたことに対する、
スペインでの民衆蜂起が発端となったスペイン独立戦争が勃発すると、インディアス植民地は偽王への忠誠を拒否した。ラパスやキト、サンタフェ・デ・ボゴタといった各地でクリオーリョの間に独立運動の気運が高まる中、
チリでも1810年にブエノスアイレスで勃発した五月革命の影響により、クリオーヨ達は「開かれた市会」(カピルド・アピエルト)の開催を要求し、
同年9月18日に開かれ、政治委員会の設立が決議された。1811年2月21日の法令で、チリの港を国際貿易に解放することが定められ、スペイン領アメリカの主要都市に置かれていた当時組織アウディアンシアの廃止を決定された。
フアン・マルティネス・デ・ロサスがサンティアゴ・デ・チレに自治政府を創設し、国民議会を招集して奴隷の輸入禁止、奴隷の子の自由を保障する決議などを行った。さらに独立を志向する自由主義者達は、共和国建設を計画はじめていた。
ホセ・ミゲル・カレーラの指導する自治政府は、ペルー副王アバスカルが派遣した王党軍とのランカウアの戦い(1814年)で敗北したことによって崩壊し、
再びスペインの支配を受けた(レコンキスタ)。独立指導者 ベルナルド・オイギンスはラ・プラタ連合州(英語版)(現アルゼンチン)に亡命し、解放者ホセ・デ・サン=マルティンの率いるアンデス軍と共にアンデス山脈越えを行い、
1817年のチャカブコの戦いに勝利し、再びチリに入った。サン=マルティンはチリ議会からチリ総督になることを要請されたが、これを拒否したため、1818年にオイギンスがチリの独立を宣言し、初代大統領となった。
同年中にチリ=ラ・プラタ連合軍がマイプーの戦いでスペイン軍を破ると、チリのスペインから独立が確定した。その後サン=マルティンはペルーに向かい、シモン・ボリーバルと共にペルーを解放することになる。
1818年から1823年までオイギンスは自由主義的改革を進める。まもなく保守主義者と自由主義者の対立が繰り広げられたが、同時期のラテンアメリカの多くの国でなったような自由党と保守党の果てしない内戦には至らず、1830年のリルカイの戦いで保守派が勝利して国政の実権を握った。
保守派の指導者だったディエゴ・ポルターレスは1833年憲法を制定した。この憲法では大統領権と中央集権的要素が強く、地方自治と議会の自立性は損なわれたものの、強力な保守支配を実現し、パラグアイと同様にチリは安定した体制を築いた。
以降強力な保守支配による政治的安定を実現した「ポルターレス体制」時代にチリは国力を蓄えることになったが、既にこの時期には他のラテンアメリカ諸国と同様にイギリスによる経済進出が進み、チリ経済もイギリスへの従属が始まった。
1836年にボリビアのアンドレス・デ・サンタ・クルス大統領がペルーを併合し、ペルー・ボリビア連合の建国を宣言すると、北方の大国の出現に脅威を感じたチリ政府は、
亡命ペルー人や、アルゼンチンの指導者フアン・マヌエル・デ・ロサスと共にこの連合を攻撃し、1839年には連合を崩壊に追い込んだ(連合戦争、ペルー・ボリビア戦争とも)。
1851年に保守党からマヌエル・モントが大統領に就任すると、電信、鉄道などが整備され、折からの銅の生産増や、政治的安定も相まってチリは急速に成長する。
また、この時期にヨーロッパ、特にドイツからのまとまった数の移民が導入された。1849年に自由党が結成されたことをきっかけに1860年代に入ると1861年から1891年まで自由主義者が政権を握り、
外交面では1865年からのスペインによる南米再侵略を打ち破り、また、独立以来混乱を続けていたボリビアのマリアーノ・メルガレホ大統領から、ボリビア沿岸部の硝石鉱山の権利を購入した。
そして、1860年のオルリ・アントワーヌ・ド・トゥナンによるアラウカニア・パタゴニア王国の建国をきっかけに、1862年からアラウカニア制圧作戦が進み、19世紀の間に南部のマプーチェ人の居住地とパタゴニアが国家に組み入れられた。
経済史として、チリは1857年恐慌で金融危機を初体験し、大統領による統制経済への疑問から1860年銀行法にフリーバンキング制度を採用した。
民間資本による自由発券銀行の設立を認めたが、身内金融は特に規制されていなかった。1873年恐慌からの銅・銀・小麦の市場価格低迷は純輸出に慢性的なダメージを与えた。正貨は容赦なく流出して準備率は落ち込んでいった。
スペインでの民衆蜂起が発端となったスペイン独立戦争が勃発すると、インディアス植民地は偽王への忠誠を拒否した。ラパスやキト、サンタフェ・デ・ボゴタといった各地でクリオーリョの間に独立運動の気運が高まる中、
チリでも1810年にブエノスアイレスで勃発した五月革命の影響により、クリオーヨ達は「開かれた市会」(カピルド・アピエルト)の開催を要求し、
同年9月18日に開かれ、政治委員会の設立が決議された。1811年2月21日の法令で、チリの港を国際貿易に解放することが定められ、スペイン領アメリカの主要都市に置かれていた当時組織アウディアンシアの廃止を決定された。
フアン・マルティネス・デ・ロサスがサンティアゴ・デ・チレに自治政府を創設し、国民議会を招集して奴隷の輸入禁止、奴隷の子の自由を保障する決議などを行った。さらに独立を志向する自由主義者達は、共和国建設を計画はじめていた。
ホセ・ミゲル・カレーラの指導する自治政府は、ペルー副王アバスカルが派遣した王党軍とのランカウアの戦い(1814年)で敗北したことによって崩壊し、
再びスペインの支配を受けた(レコンキスタ)。独立指導者 ベルナルド・オイギンスはラ・プラタ連合州(英語版)(現アルゼンチン)に亡命し、解放者ホセ・デ・サン=マルティンの率いるアンデス軍と共にアンデス山脈越えを行い、
1817年のチャカブコの戦いに勝利し、再びチリに入った。サン=マルティンはチリ議会からチリ総督になることを要請されたが、これを拒否したため、1818年にオイギンスがチリの独立を宣言し、初代大統領となった。
同年中にチリ=ラ・プラタ連合軍がマイプーの戦いでスペイン軍を破ると、チリのスペインから独立が確定した。その後サン=マルティンはペルーに向かい、シモン・ボリーバルと共にペルーを解放することになる。
1818年から1823年までオイギンスは自由主義的改革を進める。まもなく保守主義者と自由主義者の対立が繰り広げられたが、同時期のラテンアメリカの多くの国でなったような自由党と保守党の果てしない内戦には至らず、1830年のリルカイの戦いで保守派が勝利して国政の実権を握った。
保守派の指導者だったディエゴ・ポルターレスは1833年憲法を制定した。この憲法では大統領権と中央集権的要素が強く、地方自治と議会の自立性は損なわれたものの、強力な保守支配を実現し、パラグアイと同様にチリは安定した体制を築いた。
以降強力な保守支配による政治的安定を実現した「ポルターレス体制」時代にチリは国力を蓄えることになったが、既にこの時期には他のラテンアメリカ諸国と同様にイギリスによる経済進出が進み、チリ経済もイギリスへの従属が始まった。
1836年にボリビアのアンドレス・デ・サンタ・クルス大統領がペルーを併合し、ペルー・ボリビア連合の建国を宣言すると、北方の大国の出現に脅威を感じたチリ政府は、
亡命ペルー人や、アルゼンチンの指導者フアン・マヌエル・デ・ロサスと共にこの連合を攻撃し、1839年には連合を崩壊に追い込んだ(連合戦争、ペルー・ボリビア戦争とも)。
1851年に保守党からマヌエル・モントが大統領に就任すると、電信、鉄道などが整備され、折からの銅の生産増や、政治的安定も相まってチリは急速に成長する。
また、この時期にヨーロッパ、特にドイツからのまとまった数の移民が導入された。1849年に自由党が結成されたことをきっかけに1860年代に入ると1861年から1891年まで自由主義者が政権を握り、
外交面では1865年からのスペインによる南米再侵略を打ち破り、また、独立以来混乱を続けていたボリビアのマリアーノ・メルガレホ大統領から、ボリビア沿岸部の硝石鉱山の権利を購入した。
そして、1860年のオルリ・アントワーヌ・ド・トゥナンによるアラウカニア・パタゴニア王国の建国をきっかけに、1862年からアラウカニア制圧作戦が進み、19世紀の間に南部のマプーチェ人の居住地とパタゴニアが国家に組み入れられた。
経済史として、チリは1857年恐慌で金融危機を初体験し、大統領による統制経済への疑問から1860年銀行法にフリーバンキング制度を採用した。
民間資本による自由発券銀行の設立を認めたが、身内金融は特に規制されていなかった。1873年恐慌からの銅・銀・小麦の市場価格低迷は純輸出に慢性的なダメージを与えた。正貨は容赦なく流出して準備率は落ち込んでいった。
1878年の大不況はチリという国の形を一変させた。まず金本位制を離脱した。関税は産業保護へ傾きだした。
ボリビアによる、アントファガスタのチリ硝石企業への課税をきっかけに、1879年4月5日、チリはペルー・ボリビア両国に宣戦布告し、太平洋戦争が勃発した。
硝石証券の価格が暴落して、イギリスがそれを買い漁った。イギリスの支援を受けたチリは完全な勝利を収めて、1884年の講和条約によりボリビアからはアントファガスタを中心とするリトラル県を、
ペルーからはタラパカ、アタカマを獲得した。戦中1882年に南部のマプーチェ人が最後の大規模な組織的反乱を起こしているが、鎮圧後はチリ社会の底辺層に組み込まれていった。南部にはドイツをはじめとするヨーロッパから移民が入植した。
太平洋戦争以降ペルー・ボリビア両国との関係は険悪となり、現在も紛争が続いている。アタカマ国境紛争やプナ・デ・アタカマ紛争である。
終戦後まもない1884年8月1日に硝石史上初のカルテルが結成された。しかしギブス商会が無理に割当を拡大したり、ジョン・トーマス・ノースが別腹で処女地を開発しようとしたりしたのでカルテルは分解した。
1886年に大統領に就任したホセ・マヌエル・バルマセーダは、ペルー・ボリビアから獲得した鉱山資源を背景にイギリスの経済支配からの脱却を目指して国民主義政策と富国強兵政策を行った。1887年から1899年にかけて硝石ブームが起きて、
イギリスから南米向けの資本輸出がピークを迎えた。硝石産業は基幹化してゆくが、脆弱な経営基盤はノースなどの外国資本が参入する隙を与えた。戦時に買い漁った硝石証券で事業進出を果したのである。ノースはベルギーのレオポルド2世とパートナーであった。
勢いのあったイギリス資本はしかし、ハーバー・ボッシュ法が知られるにともない撤退していった。1891年に専制的大統領統治に対して議会や海軍が反乱してチリ内戦に発展した。ここでホセ大統領は議会軍に敗れて失脚し、自殺した。
内戦以降チリでは議会主導の政治が確立された。ポルタレス体制とは対照的な「強い議会、弱い大統領」の時代が1920年代まで続いた。そしてチリの硝石産業は先のハーバー・ボッシュ法により褐炭と競合して輸出量を激減させた。
ボリビアによる、アントファガスタのチリ硝石企業への課税をきっかけに、1879年4月5日、チリはペルー・ボリビア両国に宣戦布告し、太平洋戦争が勃発した。
硝石証券の価格が暴落して、イギリスがそれを買い漁った。イギリスの支援を受けたチリは完全な勝利を収めて、1884年の講和条約によりボリビアからはアントファガスタを中心とするリトラル県を、
ペルーからはタラパカ、アタカマを獲得した。戦中1882年に南部のマプーチェ人が最後の大規模な組織的反乱を起こしているが、鎮圧後はチリ社会の底辺層に組み込まれていった。南部にはドイツをはじめとするヨーロッパから移民が入植した。
太平洋戦争以降ペルー・ボリビア両国との関係は険悪となり、現在も紛争が続いている。アタカマ国境紛争やプナ・デ・アタカマ紛争である。
終戦後まもない1884年8月1日に硝石史上初のカルテルが結成された。しかしギブス商会が無理に割当を拡大したり、ジョン・トーマス・ノースが別腹で処女地を開発しようとしたりしたのでカルテルは分解した。
1886年に大統領に就任したホセ・マヌエル・バルマセーダは、ペルー・ボリビアから獲得した鉱山資源を背景にイギリスの経済支配からの脱却を目指して国民主義政策と富国強兵政策を行った。1887年から1899年にかけて硝石ブームが起きて、
イギリスから南米向けの資本輸出がピークを迎えた。硝石産業は基幹化してゆくが、脆弱な経営基盤はノースなどの外国資本が参入する隙を与えた。戦時に買い漁った硝石証券で事業進出を果したのである。ノースはベルギーのレオポルド2世とパートナーであった。
勢いのあったイギリス資本はしかし、ハーバー・ボッシュ法が知られるにともない撤退していった。1891年に専制的大統領統治に対して議会や海軍が反乱してチリ内戦に発展した。ここでホセ大統領は議会軍に敗れて失脚し、自殺した。
内戦以降チリでは議会主導の政治が確立された。ポルタレス体制とは対照的な「強い議会、弱い大統領」の時代が1920年代まで続いた。そしてチリの硝石産業は先のハーバー・ボッシュ法により褐炭と競合して輸出量を激減させた。
議会共和制期は不安定ながらも硝石、銅の輸出増を背景に鉱山寡頭支配層が政権を握り続けたが、第一次世界大戦後に硝石価格が下落すると保守支配に抵抗した「国民連合」のアルトゥーロ・アレサンドリが1920年の大統領選挙で勝利した。
第一次アレサンドリ政権は議会の過半数を占める保守派の抵抗により、改革に失敗した末に1924年の軍保守派によるクーデターで失脚したが、1925年の軍改革派によるクーデターにより返り咲き、再び政権に就いた。第二次アレサンドリ政権は1925年憲法を制定して大統領権力を強化し、
ここに議会共和政期は終焉した。なお、同年にチリ中央銀行(後述)が創立された。
1927年に急進党から就任したイバーニェス政権は道路、鉄道、港湾、水利などの公共事業と鉱業を拡大したが、1929年の世界恐慌で大打撃を受けると政府財政は破綻し、1931年に崩壊した。
混乱の中、1932年の極短期間に「社会主義共和国」が成立するが、同年中に自由党から保守派の第三次アレサンドリ政権が誕生することで混乱に終止符を打った。
1929年6月、イギリス・ドイツ・ノルウェーとカルテル結成。合成窒素の価格統一、生産・輸出割当を規定して世界生産量のほぼ八割を支配した。1
930年8月に更新され、イギリス・ドイツ・ノルウェー・ベルギー・フランスがDEN グループとしてカルテルの中心となった。チリの他、チェコスロバキア、オランダ、イタリア、ポーランドはDEN グループと別個に協定した。
カルテルはDEN グループのブロック経済に使われた。非加盟国市場について輸出割当が行われたが、アメリカ合衆国に対する輸出は無制限であった。各国の生産能力は増大するばかりであったので、生産量を能力の七割以下に抑えた加盟者に補償金を出していた。
補償金は主にチリが負担したから、見返りにチリは生産量を制限されなかった。1932年にも更新。チリがベルギーなどと割当量と価格について協定。
1936年、日本も合成窒素カルテルに参加した。
第一次アレサンドリ政権は議会の過半数を占める保守派の抵抗により、改革に失敗した末に1924年の軍保守派によるクーデターで失脚したが、1925年の軍改革派によるクーデターにより返り咲き、再び政権に就いた。第二次アレサンドリ政権は1925年憲法を制定して大統領権力を強化し、
ここに議会共和政期は終焉した。なお、同年にチリ中央銀行(後述)が創立された。
1927年に急進党から就任したイバーニェス政権は道路、鉄道、港湾、水利などの公共事業と鉱業を拡大したが、1929年の世界恐慌で大打撃を受けると政府財政は破綻し、1931年に崩壊した。
混乱の中、1932年の極短期間に「社会主義共和国」が成立するが、同年中に自由党から保守派の第三次アレサンドリ政権が誕生することで混乱に終止符を打った。
1929年6月、イギリス・ドイツ・ノルウェーとカルテル結成。合成窒素の価格統一、生産・輸出割当を規定して世界生産量のほぼ八割を支配した。1
930年8月に更新され、イギリス・ドイツ・ノルウェー・ベルギー・フランスがDEN グループとしてカルテルの中心となった。チリの他、チェコスロバキア、オランダ、イタリア、ポーランドはDEN グループと別個に協定した。
カルテルはDEN グループのブロック経済に使われた。非加盟国市場について輸出割当が行われたが、アメリカ合衆国に対する輸出は無制限であった。各国の生産能力は増大するばかりであったので、生産量を能力の七割以下に抑えた加盟者に補償金を出していた。
補償金は主にチリが負担したから、見返りにチリは生産量を制限されなかった。1932年にも更新。チリがベルギーなどと割当量と価格について協定。
1936年、日本も合成窒素カルテルに参加した。
1938年の選挙によりアレサンドリは敗れ、人民戦線からペドロ・アギーレ・セルダが大統領に就任した。
1939年に生産振興公社が設立されたが、1941年にアギーレは辞任した。 第二次世界大戦では中立だったが、1945年4月11日、日本に宣戦布告した。 1946年に急進党からガブリエル・ゴンサレス・ビデラ政権が成立すると、アメリカ合衆国の圧力の下にソ連との断交が行われ、
チリ共産党が連立から離脱すると、人民戦線は終焉した。1948年に「民主主義防衛法」が成立すると、以降1958年まで共産党は非合法化された。
1952年にポプリスモ政策を掲げた第二次イバーニェス政権が成立すると、選挙法の改正などにより秘密選挙が保障されるようになり、1958年には「民主主義防衛法」も廃止された。
1958年にアルトゥーロ・アレサンドリの息子、ホルヘ・アレサンドリ(英語版)が大統領に就任したが、アレサンドリはブルジョワ層に傾いた政策を採り、「進歩のための同盟」の要請により行われた農地改革もほとんど実効性の無いものに止まった。
1964年にキリスト教民主党のエドゥアルド・フレイ・モンタルバが人民行動戦線のサルバドール・アジェンデを破って大統領に就任した。「自由の中の革命」を唱えたフレイは「銅山のチリ化」や、
部分的な農地改革を行った。「銅山のチリ化」、農地改革は共に不徹底なものに終わったが、政治における民衆動員は、1970年の大統領選挙における階級対立の図式を整えることとなった。
1939年に生産振興公社が設立されたが、1941年にアギーレは辞任した。 第二次世界大戦では中立だったが、1945年4月11日、日本に宣戦布告した。 1946年に急進党からガブリエル・ゴンサレス・ビデラ政権が成立すると、アメリカ合衆国の圧力の下にソ連との断交が行われ、
チリ共産党が連立から離脱すると、人民戦線は終焉した。1948年に「民主主義防衛法」が成立すると、以降1958年まで共産党は非合法化された。
1952年にポプリスモ政策を掲げた第二次イバーニェス政権が成立すると、選挙法の改正などにより秘密選挙が保障されるようになり、1958年には「民主主義防衛法」も廃止された。
1958年にアルトゥーロ・アレサンドリの息子、ホルヘ・アレサンドリ(英語版)が大統領に就任したが、アレサンドリはブルジョワ層に傾いた政策を採り、「進歩のための同盟」の要請により行われた農地改革もほとんど実効性の無いものに止まった。
1964年にキリスト教民主党のエドゥアルド・フレイ・モンタルバが人民行動戦線のサルバドール・アジェンデを破って大統領に就任した。「自由の中の革命」を唱えたフレイは「銅山のチリ化」や、
部分的な農地改革を行った。「銅山のチリ化」、農地改革は共に不徹底なものに終わったが、政治における民衆動員は、1970年の大統領選挙における階級対立の図式を整えることとなった。
1970年の大統領選挙により、人民連合のアジェンデ大統領を首班とする社会主義政権が誕生した。これは世界初の民主的選挙によって成立した社会主義政権であった。
アジェンデは帝国主義による従属からの独立と、自主外交を掲げ、第三世界との外交関係の多様化、キューバ革命以来断絶していたキューバとの国交回復、同時期にペルー革命を進めていたペルーのベラスコ政権との友好関係確立などにはじまり、
鉱山や外国企業の国有化、農地改革による封建的大土地所有制の解体などの特筆すべき改革を行ったが、しかし、ポプリスモ的な経済政策は外貨を使い果たしてハイパーインフレを招き、
また、西半球に第二のキューバが生まれることを恐れていたアメリカ合衆国はCIAを使って右翼にスト、デモを引き起こさせるなどの工作をすると、チリ経済は大混乱に陥り、物資不足から政権への信頼が揺らぐようになった。
さらに、極左派はアジェンデを見限って工場の占拠などの実力行使に出るようになった。
アジェンデは帝国主義による従属からの独立と、自主外交を掲げ、第三世界との外交関係の多様化、キューバ革命以来断絶していたキューバとの国交回復、同時期にペルー革命を進めていたペルーのベラスコ政権との友好関係確立などにはじまり、
鉱山や外国企業の国有化、農地改革による封建的大土地所有制の解体などの特筆すべき改革を行ったが、しかし、ポプリスモ的な経済政策は外貨を使い果たしてハイパーインフレを招き、
また、西半球に第二のキューバが生まれることを恐れていたアメリカ合衆国はCIAを使って右翼にスト、デモを引き起こさせるなどの工作をすると、チリ経済は大混乱に陥り、物資不足から政権への信頼が揺らぐようになった。
さらに、極左派はアジェンデを見限って工場の占拠などの実力行使に出るようになった。
こうした社会的混乱の中で1973年9月11日、アメリカ合衆国の後援を受けたアウグスト・ピノチェト将軍らの軍事評議会がクーデターを起こしてモネダ宮殿を攻撃すると、降伏を拒否したアジェンデは死亡し、チリの民主主義体制は崩壊した。
翌1974年にピノチェトは自らを首班とする軍事独裁体制を敷いた。
このピノチェト軍政の治安作戦は苛烈を極め、軍内の死の部隊や秘密警察「DINA」によるコンドル作戦(汚い戦争の一種)により、人民連合派をはじめとする多くの反体制派の市民が弾圧された。後の政府公式発表によれば約3,000人、
人権団体の調査によれば約30,000人のチリ人が作戦によって殺害され、数十万人が各地に建設された強制収容所に送られ、国民の1/10に当たる100万人が国外亡命し、失業率22%、さらには国民の1/4のGNPが「全く」なくなるという異常事態を招きながらも、
軍事政権はミルトン・フリードマンらのシカゴ学派に基づく新自由主義経済政策を「教科書通り」に導入した。このことをフリードマン本人は「チリの奇跡」と呼び賞賛したが、
実際には、60年代には4.5%を記録していたGDPの平均成長率は、経済政策導入後、1974年から82までの間のGDPの平均成長率は1.5%まで落ち込んだ。この数値は、同時代のラテンアメリカの平均成長率4.3%よりも低い。
また、1970年から80年におけるチリの人口あたりGDP成長率は8%だが、これもラテンアメリカ全体の人口あたりのGDP成長率40%よりも低かった。また、1973年には4.3%であった失業率が10年間で22%に上昇。
貧富の差は急激に拡大し、貧困率はアジェンデ時代の倍の40%に達した。そのため、政権末期はシカゴ学派を政権から追い、ケインズ政策を導入し軌道修正を図った。その結果、貧困層の収入は3割増加し、また、貧困層の割合はアジェンデ時代の45%から30%にまで低下した。
しかし、アルゼンチンとボリビア(1982年)や、ウルグアイ(1985年)、ブラジル(1985年)と周辺国が民主化する中で、一向に権力から離れず人権侵害を行うピノチェト軍事政権は国際的な批判を呼び、
1988年のピノチェト信認選挙で敗北すると、1989年12月に行われた総選挙で、反ピノチェト派の政党連合コンセルタシオン・デモクラシアを構成する中道のキリスト教民主党のパトリシオ・エイルウィンが、
ピノチェト派の候補に僅差で勝利したことにより、1990年、チリは17年ぶりに民主的な文民政権に移管することになった。
翌1974年にピノチェトは自らを首班とする軍事独裁体制を敷いた。
このピノチェト軍政の治安作戦は苛烈を極め、軍内の死の部隊や秘密警察「DINA」によるコンドル作戦(汚い戦争の一種)により、人民連合派をはじめとする多くの反体制派の市民が弾圧された。後の政府公式発表によれば約3,000人、
人権団体の調査によれば約30,000人のチリ人が作戦によって殺害され、数十万人が各地に建設された強制収容所に送られ、国民の1/10に当たる100万人が国外亡命し、失業率22%、さらには国民の1/4のGNPが「全く」なくなるという異常事態を招きながらも、
軍事政権はミルトン・フリードマンらのシカゴ学派に基づく新自由主義経済政策を「教科書通り」に導入した。このことをフリードマン本人は「チリの奇跡」と呼び賞賛したが、
実際には、60年代には4.5%を記録していたGDPの平均成長率は、経済政策導入後、1974年から82までの間のGDPの平均成長率は1.5%まで落ち込んだ。この数値は、同時代のラテンアメリカの平均成長率4.3%よりも低い。
また、1970年から80年におけるチリの人口あたりGDP成長率は8%だが、これもラテンアメリカ全体の人口あたりのGDP成長率40%よりも低かった。また、1973年には4.3%であった失業率が10年間で22%に上昇。
貧富の差は急激に拡大し、貧困率はアジェンデ時代の倍の40%に達した。そのため、政権末期はシカゴ学派を政権から追い、ケインズ政策を導入し軌道修正を図った。その結果、貧困層の収入は3割増加し、また、貧困層の割合はアジェンデ時代の45%から30%にまで低下した。
しかし、アルゼンチンとボリビア(1982年)や、ウルグアイ(1985年)、ブラジル(1985年)と周辺国が民主化する中で、一向に権力から離れず人権侵害を行うピノチェト軍事政権は国際的な批判を呼び、
1988年のピノチェト信認選挙で敗北すると、1989年12月に行われた総選挙で、反ピノチェト派の政党連合コンセルタシオン・デモクラシアを構成する中道のキリスト教民主党のパトリシオ・エイルウィンが、
ピノチェト派の候補に僅差で勝利したことにより、1990年、チリは17年ぶりに民主的な文民政権に移管することになった。
このような民主化の流れの中、世界情勢は混沌を極めており、南米への度重なる植民に危機感を感じた太平洋側の南米原住民が団結、そして近代化を成し得たことでチリ=サーモン連邦が成立した。
原住民が団結して形成された国家は、目まぐるしい発展ぶりを見せ、中堅国と同等に渡り合える軍事力とG7に数えられるまでの国際的発言力を持っていた。
原住民が団結して形成された国家は、目まぐるしい発展ぶりを見せ、中堅国と同等に渡り合える軍事力とG7に数えられるまでの国際的発言力を持っていた。
本日、偉大なる政府首班を始めとする189名の団体がチリに到着、ここに「チリ連邦政府」の設立を宣言します!
また、このチリの土地は偉大なるインカ帝国から無償にて割譲していただいたものであります!
最大限の感謝を表明いたします!
チリ連邦建国宣言: 国王デリー・サンディ
2000年 6月8日、189人からなる「チリ連邦政府団」がサンディエゴに到着、
即日ボリバルの大インカ帝国首班と話し合いを始め、偉大なるボリバルの大インカ帝国より無償にて代表団がこのチリの国土を割譲。
翌日6月9日には、立憲君主制を宣言し国王に「デリー・サンディ」、首相に「フェルナンデス・ゴーゴ」が着任した。
また、同日南米同盟?に加盟した。
経済大国を目指すために様々な団体から資金を援助または借入している。
混乱を防ぐため、行政区画はチリ=サーモン連邦時代と変更はしておりません。
連邦支庁名 | 首都 | 備考 | |
番号 | 州名 | 州都 | 備考 |
連邦首都支庁 | サンティアゴ・エン・エルシエロ | ||
(7) | (首都特別州) | (サンティアゴ・エン・エルシエロ) | 連邦政府の直接行政下に置かれている。便宜上首都特別州と呼ばれることもある。 |
チリ北部連邦支庁 | アントファガスタ | ||
1 | アリカ・イ・パリナコータ | アリカ | |
2 | タラパカ | イキケ | |
3 | アントファガスタ | アントファガスタ | |
チリ中部連邦支庁 | バルパライソ | ||
4 | アタカマ | コピアポ | |
5 | コキンボ | ラ・セレナ | |
6 | バルパライソ | バルパライソ | |
8 | リベルタドール・ベルナルド・オイギンス | ランカグア | |
9 | マウレ | タルカ | |
チリ南部連邦支庁 | プエルトモント | ||
10 | ビオビオ | コンセプシオン | |
11 | ラ・アラウカニア | テムコ | |
12 | ロス・リオス | バルディビア | |
13 | ロス・ラゴス | プエルトモント | |
14 | アイセン・デル・ヘネラル・カルロス・イバニェス・デル・カンポ | コイアイケ | |
15 | マガジャネス・イ・デ・ラ・アンタルティカ・チレーナ | プンタ・アレーナス |
・南米同盟?
チリ連邦農業協同組合 | |
本社 | サンディアゴ |
資本金 | 1000万ペソ |
業務内容 | 農業生産物売 |
生産品 | 農作物(後述) |
チリ連邦漁業協同組合 | |
本社 | サンディアゴ |
資本金 | 1000万ペソ |
業務内容 | 漁業生産物売 |
生産品 | 魚介物(後述) |
チリ連邦畜産協同組合 | |
本社 | サンディアゴ |
資本金 | 1000万ペソ |
業務内容 | 畜産物売 |
生産品 | 畜産物(後述) |
サン・コーラ | |
本社 | サンディアゴ |
資本金 | 1250万ペソ |
業務内容 | 飲料水売 |
生産品 | コーラ、サイダー |
ウイスキー・チリーヌ | |
本社 | サンディアゴ |
資本金 | 2000万ペソ |
業務内容 | 酒売 |
生産品 | ウイスキー |
サンディ・ワイン | |
本社 | サンディ |
資本金 | 1000万ペソ |
業務内容 | 酒売 |
生産品 | ワイン |
チリ中央銀行ホールディングス | |
本社 | サンディアゴ |
資本金 | 15000万ペソ |
業務内容 | 金融商品取扱 |
生産品 | 資金 |
Tigle | |
本社 | サンディアゴ |
資本金 | 3000万ペソ |
業務内容 | ブラウザサイト「Tigle」運営 |
生産品 | ウェブサイト |
TicroSoft | |
本社 | サンディアゴ |
資本金 | 2500万ペソ |
業務内容 | OS「Tindows」販売・管理、オフィス系ソフト販売 |
生産品 | OS(オペレーション・ソフトウェア)、オフィス系ソフト |
Tfee | |
本社 | サンディアゴ |
資本金 | 1500万ペソ |
業務内容 | セキュリティソフト販売 |
生産品 | セキュリティ・ソフトウェア |
カスト | |
本社 | サンディアゴ |
資本金 | 3000万ペソ |
業務内容 | ファミリーレストラン「カスト」運営サービス |
生産品 | なし |
チリ証券取引所 | |
本社 | サンディアゴ |
資本金 | 5000万ペソ |
業務内容 | チリ証券取引所運営 |
生産品 | 株券 |
Cash | |
本社 | サンディアゴ |
資本金 | 2000万ペソ |
業務内容 | クレジットカード「TISA」のサービス提供 |
生産品 | クレジットカード |
EONホールディングス | |
本社 | サンディアゴ |
資本金 | 10000万ペソ |
業務内容 | 総合スーパー「EON」の持株会社 |
生産品 | なし |
ナフコグループ | |
本社 | サンディアゴ |
資本金 | 5000万ペソ |
業務内容 | 化学製品・医学薬の製造 |
生産品 | 化学製品・医学薬 |
チリテレビHD | |
本社 | サンディアゴ |
資本金 | 5000万ペソ |
業務内容 | チリ国営放送の持株会社 |
生産品 | なし |
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