フランスの崩壊に際し主にドイツ系の民族が住んでいた地域が独立し成立した。「スイスはゲルマン民族の誇りだけで生きている」(ジョン・ドレスラー)の言葉の通り特記するようなインフラも無ければただただ時計を作って過ごしている人々でありながら、その心は常にゲルマン民族の誇りにある。故にゲルマン国家であるドイツやオーストリアには大きな憧れを抱いており、自分達の使う山岳ドイツ語を一般的なドイツ語にしようという試みが前々から行われている。
現在独立当初の混乱から樹立された軍人のヴィルヘルム・シューレンが外交等を担当しているが彼自身には一切野心が無く、ただゲルマン人なら良いという理由だけで国民も納得している。
ドイツ語しか話せない。ヴィルヘルム・シューレンもスイス国内ではドイツ語しか話さない。
詳史
突如としてフランス帝国が崩壊すると国内は大混乱へ陥った。
その中でドイツ人が多く住んでいてアイデンティティを確立していたスイス地方では独立の機運が高まった。
しかし独立運動はまとまりを持たずただスイスを不安定な状態へと陥らせるだけだった。
これが各々の利益や権力欲などと結びつき独立運動は興っては沈静し代表が2週間単位で変わる地域も現れ、遂にその様相は戦国時代へと変貌していき、フランス時代の経済基盤などはその殆どが失われていった。
その後フランス国内での混乱の鎮圧の為イギリスが進駐するとベルンの運動家ルートヴィヒは焦燥感に駆られた。
彼は基本的に平和主義だったが、この状況でも変わらないスイスを統一するには実力行使も惜しまない姿勢で無ければならないと決意し、武器を手に取った。
周辺を制圧していく中彼はジュネーヴのルターに手紙を送った。
ルターはフランス人の多いジュネーヴにあるジュネーヴスイス独立委員会の委員長だった。そんな彼はスイス独立を訴えながらも日夜繰り広げられるフランス人とドイツ人の暴力を交えた決着の付かない激論に頭を抱えていた。
そんなルターがルートヴィヒから手紙を受け取ったとき大変喜んだ。
そして何回か文通を繰り返し親好を深め、友好関係を結ぶに至った。
自称フリブール公国を名乗っていた勢力を倒したルートヴィヒは遂に対自称ローザンヌ王国の最中ルターと握手を交わした。
ルターはルートヴィヒのスイス独立に対する熱意の演説を聞くと感涙し、全面的な協力を約束し、強い団結を持ってスイスの独立と統一へ向かうことを宣言した。
自称(以下より自称略)ローザンヌ国王が亡命すると両国はそのままツェルマット共和国と抗争を繰り広げているシオン帝国の背後を攻撃。その途中でツェルマット共和国と併合条約を結び、シオン帝国を1ヶ月で屈服させた。
そして東西に分裂した西アルプス共和国を征服し、ベルンを首都とするスイスの建国を宣言した。
だが所詮まだスイス西部を統一したに過ぎないこのスイス政府は、同じようにスイス独立と統一を目指し東アルプス共和国を併合したチューリッヒ公国のカール公と衝突した。
二人はなんとかこのカールを仲間へと引き入れたかったが、最大の問題としてこのカールは君主主義者で、なおかつ過激なスイス・ドイツ主義者だった。カールは二人の会談要求はほとんど毎回快諾したが、何か実りのある決定を出せた会談は一つとしてなかった。
しかし三人が協力してルツェルン帝国と戦っている時、事態が急変する。
ルターのジュネーヴでフランス人が蜂起を起こし、ジュネーヴ大公国の復活を宣言した。(注:元々ジュネーヴは大公国だったが大公がフランス人であった為にルターを始めとしたドイツ人がジュネーヴスイス独立委員会を成立させ、その内戦に勝利した為に委員会が実権を握っていた)
ルターは直ぐに軍をジュネーヴへ差し向けたが立てこもる彼らを撃破することは非常に難しかった。
しかしそんな中ジュネーヴ大公国を見事に打ち破った部隊があった。
カール大公が直々に率いるチューリッヒ軍である。
彼らはジュネーヴの要塞を突破するとその軍事施設を悉く破壊した。
更に大公が捕まるとフランス人は一斉に反西フランス(現南仏)へと亡命した。
その後大公にはチューリッヒの裁判所で死刑判決(この頃は禁止されてなかった)が下されたが、ルターとルートヴィヒの強い説得によって、ジュネーヴ等にいるフランス人の全員を連れての国外退去を判決として出した。
その後それでも国内に残ったフランス人には自らがドイツ人であることを認める誓約書を書かせ、フランス系の先祖は家系図から消された。
しかしこれでカール大公の望んでいたスイス・ドイツ主義が成立した。
その後ルツェルン帝国がスイスとチューリッヒの間で分割されるとその様子を見ていたシャフハウゼン大公国の大公はその位をカールへ譲った。(ここでカールはチューリッヒ公国を大公国であると宣言)
こうなるとスイス国内に残った勢力は、
ルターとルートヴィヒ率いるスイス(ベルン=ジュネーヴ共和国)
カール率いるチューリッヒ大公国
混乱に乗じて復活し領土を拡大させていたリヒテンシュタイン公国
国王が自らルツェルン帝国への援軍を率い、戦死してしまったため現在空位となっているルガーノ王国
の4つとなっていた。
そしてスイスとチューリッヒの対話は遂に統一に関しての最終合意へ入ろうとしていた。
しかしここで最後の問題点に当たっていた。
それは新生スイスを君主制とするか共和制とするかであった。
カールは自らがスイス国王、ひいては皇帝となることを夢見ていた。
それに対してルター、ルートヴィヒは君主制は戦いを生みかねず、自分たちは共和制の永世中立国とならねばならないとしていた。
彼らの主張は平行線で、それはルガーノ王国を打倒しても変わらなかった。
そんな中リヒテンシュタインはその会議への参加を要求、見返りにスイスの旧領全てを返還するとした。
これを三者は快諾し、ここにスイスに残る勢力は2つとなった。
最後的にルートヴィヒ達は国民投票での決定を提案した。
カールはスイスを東西で分断し、東を君主制、西を共和制とし、その上で二国間で様々な条約を締結し国民の自由な移動や関税撤廃を行って事実上の統一とすることを提案した。
そんな中会議に参加したリヒテンシュタインは国民投票に賛成。東西分裂や君主制、共和制による統一、ひいては国民の一部が夢想しているドイツ帝国皇帝にスイスの帝冠をいただいてもらう案など全てを国民投票に委ねるべしとした。
会議はその主張が衝突しながら2ヶ月経った。
そして遂にカールが折れ、国民投票に委ねることとなったのである。
国民投票は特に暴動も無く5日間かけて行われた。
投票率は95%を数え、まさしく国民の総意と言っても差し支えないレベルとなった。
結果は共和制による統一が86%となり、圧倒的多数での決着となった。
しかし不安はまだ取り除かれていなかった。カールにはこれを受け入れず、戦争の道を選ぶこともできたからである。
カールからの回答は迅速だった。
「やはり、スイスはスイスのようだ」とだけ言うと自らの領土を全てスイスへと割譲したのである。
ここにスイスは統一を果たした。
その後リヒテンシュタインはオーストリアでの政情不安などを受けスイス連邦への加入を要請し、受諾された。
そしてスイスはジュネーヴ、ベルン、リヒテンシュタイン、そしてチューリッヒの連邦共和制国家であると宣言した。
その後は国民もよく知っている話である。
ルートヴィヒ、ルター、カールの三人は第一回大統領選挙へは出馬しなかった。
アーダルベルトが初代連邦大統領となると彼はこの三人をスイス統一の三英雄だと讃え、各地に銅像を建てた。
どこに行ってもこの三人は英雄扱いで、歓迎式典が開かれた。
しかしこの選挙から3ヶ月後、ルートヴィヒは以前から患っていた肺ガンで亡くなった。
そしてその後を追うようにルイも老衰で亡くなった。
三英雄としてはカールだけが残ったが、そのカールも更にその半年後、元フランス人に殺された。
これはスイス人の怒りの心に火を付けた。
国内の元フランス人を見つけだしては虐殺を繰り返すという過激な集団が各地に現れたのである。
国内は再び混乱に陥った。
アーダルベルトはこの混乱を抑え込もうと遊説を繰り返し、元フランス人の権利を保護する法律を作ったが今度はそれが理由となってアーダルベルトが標的となった。
アーダルベルトは遊説の最中ルツェルンで胸を刺された。
運良く急所を外していたため一命を取り留めたアーダルベルトだったがもはや自分の手には負えないと痛感し、軍部のヴィルヘルム・シューレンに軍を使った強制治安行為を要求。
議会もこれを承認したためヴィルヘルム・シューレンはあちこちで軍を出動させなんとか治安を維持させた。
しかしそんな中アーダルベルトがその刺し傷が原因となったのか突然死亡した。
第二回選挙が必要だと議会は感じてこそいたが、今選挙をやれば最悪の場合極端な反仏主義者が大統領になりかねなかったため、議会は一計を案じてヴィルヘルム・シューレンを臨時大統領へ就任させた。
ヴィルヘルム・シューレンは情勢を理解し、これを受け入れた。
そしてこの騒動を何とか鎮圧すると、カールの出したフランス人をドイツ人とする誓約書の内容をドイツ人からゲルマン人へと変更させた。
そしてこれまでのスイス・ドイツ主義をスイス・ゲルマン主義へと変えさせたのである。
彼が制定させた国歌にもそれが現れている。
こうしてスイスのゲルマン主義は成立し、現在のスイスへと繋がるのである。
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