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ルイラ・ザメンホーフ(Luira Zamnhof)とは、トルコ共和国の元帥、第三代軍需大臣、全テュルク国粋連盟の頭領である。
また、L.ザメンホーフとも表記される。
ルイラ・ザメンホーフ
Luira Zamnhof
本名:Mustafa Cebesoy
新生トルコ共和国 第三代軍需大臣
任期:1974年11月18日-1976年12月3日
出生:1948年4月28日,トルコ共和国テッサロニキ
政党:トルコ共和党・トルコ国粋党
生い立ち
1948年、新生トルコ共和国テッサロニキで、保守系の官僚アリ・ジェソボイと母ズュベイデ・ハヌーの第一子として生まれた。夫妻は『選ばれし者』を表す「ムスタファ」と命名した。なお、イスラエル王国政府公認の参考書『ユダヤ百科事典』によると、トルコのユダヤ人の多くは、ムスタファ・ジェソボイをシャブタイ派であると信じているが、トルコ政府はそれを認めていない、という。

ジェソボイは、父の希望で、シャブタイ派カパンジュ分派に属するシェムスィ・エフェンディが開校し西洋式教育を実施していた学校 (Şemsi Efendi Mektebi) に進んだが、学校になれず、しばらくして父の友人が居るテッサロニキ高等小学校に通った。また、同時に父の経営する右派的政治塾『テュルク国家』に通い、エジプト語教官メフメド、歴史教官メフメド・テヴフィクらの影響を受けた。この塾で教わった保守的思想は、彼の後の思想の大きな基盤となる。
軍隊へ
トルコ政府が軍国主義を推し進めていくと同時にジェソボイは父の勧めを受け、1968年3月14日、陸軍士官学校(陸士2314年入学組)に入学した。士官学校では、校長メフメド・エサド、オスマン・ヌーリらの薫陶を受け、同期生のアリ・フアト、メフメド・アーリフ、アフメド・フアト(ブルジャ)、一期先輩のアリ・フェトヒ(オクヤル)、一期後輩のヌーリ(ジョンケル)、キャーズム・カラベキルらと親交を深めた。
1969年2月10日に同校を歩兵少尉として第2席の成績で卒業し、陸軍大学に進んだ。1969年4月11日に同学を参謀大尉として修了(陸大94期、3席)して、研修のためアフリカ領防衛隊の第1軍に配属された。
また、この頃からジェソボイは共和国の政治に反感を抱いており、当時の同僚メフメド・アーリフやメフメド・フアドと共に共に「祖国」(Hürriyet) を設立した。その後、無断でトラキアに戻り、対ルーマニア支部を設立したという。1969年にトラキアでは、青年将校や下級官吏が、統一と進歩の会の現地支部を設立し、1969年6月20日に上級大尉 (Kolağası) に昇進したジェソボイが1969年10月13日にサロニカの第1軍司令部に転属されたときには、「祖国」の支部も統一と進歩の会に吸収されていたため、ジェソボイもに加入した。しかし、同協会ではタラートや、ジェマルが力を持っており、革命の成功で、レスネのニヤーズィ・ベイやエンヴェル・ベイらが「自由の英雄」として名声を獲得した。

1970年1月22日、ルメリア東部地区鉄道監察官に、1970年3月13日、第1軍隷下のサロニカ予備師団参謀長に任命された。1970年のアルジェ動乱を鎮圧するため、サロニカの第1軍とアドリアノープルの第2軍から部隊が「行動軍」の名の下にイスタンブールに派遣されたが、ジェソボイは、第3軍から派遣された予備師団の作戦課長として参加し、11月5日に第1軍司令部に戻った。1970年9月6日から11月1日まで第1軍士官養成所に勤務した後、再び第1軍司令部に戻った。9月12日から18日まで実施されたイスタンブールの市街戦演習に武官として派遣された。この際、飛行機への搭乗を勧められたが同行した将校の警告に従って、乗らなかった。その後、搭乗予定であった飛行機が墜落し搭乗者全員が死亡した。ジェソボイは後述の亡命時を除き一生涯、飛行機に乗らなかった。統一と進歩の会第二回大会で職業軍人による政治活動の禁止を再提案した。1971年1月15日、第5軍団司令部に配属され、第38歩兵連隊を経て、9月27日に参謀本部付となった。
ルーマニア王国との国境紛争
ルーマニア王国がギリシャ領との国境線を突破したため、イスマイル・エンヴェル・ベイ、アリ・フェトヒ・ベイ、オメル・ナージ・ベイ、アフメド・フアド・ベイ、メフメド・ヌーリ・ベイ、ヤークブ・ジェミル・ベイら統一と進歩の会の志願者たちとともにトラキアに赴くことになった。1970年11月27日、船上で少佐に昇進したジェソボイは、筆記記者「シェレフ」として黒海を経由して最前線であるブルガス市に向かった。12月18日、トラキア地方東部の義勇部隊司令官となったが、1971年1月16日、両目を負傷し、1か月ほど治療を受けた後、1971年3月11日にブルガス市監督官に任命されゲリラ戦を展開した。また、この時から目の保護の為サングラスをかける様になった。
ギリシャ国民戦争
1971年12月14日、ルーマニアが大規模な攻勢をトルコ領ギリシャ全体へ開始した。この指令を受けた当時プトレマイス地区軍事監督官であったジェソボイは直ちに兵を募り、カストリア市-キルキス市までの防衛線の構築を第3部隊総合司令官であったオスマン・フェトから指令を受け、1972年3月21日に要塞戦を展開した。
要塞を構築し相手を疲労させたことは敵であるルーマニア軍に大きな損害を与え撤退させることに成功したが、テッサレン・ナージ率いるトラキア地方戦線の戦況はルーマニア軍の優勢であり、ルーマニア軍が1972年5月19日にカストリア要塞に放った火の影響で味方の疲労も溜まっていたことを理由に、トルコ共和国がルーマニアへ講和交渉をする事を推奨した。
この結果、ルーマニア王国とトルコ共和国は1973年6月1日に講和会議を結び、両国との間では一定の安定が得られたが、ギリシャの損失とその代償も大きく、「ギリシャ損失の元凶」としてジェソボイはトルコの保守層から非難を浴びるようになった。
また、この時後顧の憂いを断つ為、統一と進歩の会から離脱したことも自伝「報い」で明かしている。
官僚として
ギリシャの損失により多々の避難を浴びたジェソボイであるが、当時隠居していた父の推挙を受けて1973年12月3日、トルコ共和党に入党し、父が官僚のトップだった事もあり、1974年2月21日には既にトルコ大議会の議員、1974年6月7日には議長となり、異例の出世スピードを見せた。
また、7月22日に「進歩の会」の旧友らと、国粋主義を主な思想とするトルコ国粋党を結成し、自らの政治路線を揺るぎなきものとした。
1974年11月28日に第二代軍需大臣であったタンス・ヴィヴィレトが突然死去し、晴れて後継の第三代軍需大臣にジェソボイが就任した。
1975年4月21日に始めた「西欧化政策」や世俗主義の再確認を進め、トルコ共和国の軍備は74年では120師団だったものが、76年初期には500師団と、大幅に増強したとされる。
1975年7月14日、旧友であるアフメド・ベイやムスタファ・パシャと共に地下組織「テュルク民族の鉄と血」を結成し、この頃から汎テュルク的思想を全面的に出すようになる。
対ソ連戦
第十三次露土戦争中の1976年3月20日、人材不足の中、大統領にコーカサス軍の統括を行う第19師団長に任命され、3月25日、エサド・パシャの指揮下にある第3軍団の予備兵力として、反乱部隊が集結しているグルジア地方周辺に展開した。3月30日、北ペルシア地区司令部司令官ジェヴァード・ベイとの連携で、第19師団は、アナトリア半島東部の国境線付近にて予備兵力とされ、オーストリアから招聘されたオットー・リーマン・フォン・ザンデルスの指揮のもとに第5軍が新設されると軍予備とされた。
1976年4月25日、ソ連・グルジア反乱軍がバクー付近の砦ジリヤ要塞の上陸作戦を敢行し、ジェソボイは、ウリーニン率いる海兵軍団が上陸したブゾヴナ地区に急行し、前進を食い止めた。5月1日に大佐に昇進した。1976年6月4日夜半、ソ連軍は、増援の第9軍団をカスピ海近郊に上陸させた。サンゲル将軍は、ビルガー市防衛集団司令官アフメド・フェヴズイにコラト市での即時反撃を命令したが、手間取ったため、ジェソボイにバクー半島北東部の指揮権を委譲し、6月12日よりキフロスキ市以東総合司令官となった。ソ連軍の猛攻を食い止めたジェソボイは、ルーシン・エシュレら地元のテッサロニキは勿論、他国のメディアからも「キフロスキの英雄」として報じられ、汚名を返事した。7月4日以降、第8軍団司令官も兼任した。

8月10日、キフロスキ以東総合司令官を自主辞任し、1977年1月27日、シヤザン市の第2軍団司令部に着任し、同軍団とともにスーラバード村に転進し、コーカサス地方東南部と北ペルシア地区の一部の間の戦線を受け持った。キフロスキ戦での軍功で軍務期間が加算され、1977年3月19日、「ミールリヴァー」に昇進しパシャとなった。その後、5月21日にソ連軍よりシャキ市周辺を一時的に奪還した。1977年6月3日、第2軍司令官代理となった後、サムスン地区司令官への就任が提案されたが、これを固辞した。7月5日、コーカサス地方西部の第7軍司令官に任命されたが、オーストリアより派遣されたユルドゥルム軍集団の司令官エーリッヒ・フォン・ファルケンハインと衝突して、第7軍司令官を自ら辞任してイズミール市に戻った。10月9日、再度、第2軍司令官への任命の辞令が出されたが、赴任する前に、11月7日に総司令部付とされた。

1977年12月15日から1978年1月5日まで、外交官ワフデッティンのドイツ帝国訪問に随行し親交を深めた。4月から5月にかけて、療養のために、ドイツのベルリンとチェコのプラハに滞在したが、トルコ共和国が露土戦争に負けたため、6月2日にイスタンブールに戻った。帰国後、7月12日、内アフリカ州戦線でザンデルス元帥の指揮するユルドフル軍集団隷下の第7軍司令官に任命され、ローマとの宥和交渉に向かっていたワフデッティンから「スルタンの名誉副官」の称号を贈られた。1978年9月19日に開始されたユーゴスラヴィア軍の国境前進の後、9月20日、トルコ共和国外交大臣のナージ・ベイを通じて休戦を勧め、自らの元帥の就任を求める電報を打った。その後、トルコ共和国軍はエディルネまでの退却を余儀なくされ、10月30日夕刻に調印され翌31日正午に発効した休戦協定の第19条に規定されたオーストリア人の国外退去命令に従い、ザンデルス元帥が退任し、ジェソボイがユルドゥルム軍集団司令官に就任し、11月7日まで同職に留まった。
クーデター未遂
エルドアソ大統領が処刑され新大統領が就任した1979年11月13日、イスタンブールのハイダルパシャ駅に着いたジェソボイは、停泊する戦勝国艦船を目の当たりにした。1979年4月、シェヴケト・トゥルグート、ジェヴァート・パシャ、ムスタファ・フェヴズィは秘密裏に会談を持ち、「制約」と呼ばれる報告文を作って国土防衛・再軍備のため指令監督区の創設を決定した。4月末、ムスタファ・フェヴズィは国防大臣シャーキに報告文を提出し、4月30日、国防省と軍需省・新大統領であるケバーヌ・フズインの承諾を受けた決定を承認した。そして、イスタンブールに第3軍監督官としてムスタファ・フェヴズィが、コンヤにユルドゥルム軍監督官(後に第2軍監察官)としてメルスィンリ・ジェマルが、エルズルムに第9軍監察官(後に第3軍監察官)としてジェソボイが、ルーメリ軍監察官としてヌーレッディン・パシャが派遣され、第8軍団が国防省直属となる計画であった。この計画に従い、ジェソボイは、東部アナトリアに派遣されることになった。5月15日、ジェソボイは、ユルドゥズ軍需省本部に赴き、ケバーヌ大統領との最後の会見の後、5月16日、貨客船「バンドゥー」で出航し、5月19日、サムスン市に上陸した。ジェソボイはアナトリア東部のエルズルム、スィヴァスにおいてアナトリア各地に分散していた共和国軍の司令官たち、旧統一と進歩委員会の有力者たちを招集、トルコ共和国領の不分割を求める宣言をまとめ上げ、また「テュルク国家権利擁護委員会」を結成して抵抗運動の組織化を実現する。

しかし、抵抗運動の盛り上がりに驚いたソ連軍が1980年3月16日、首都イスタンブールを占領し、未開発であった東部アナトリアを一部支配していたにしか過ぎないジェソボイ軍は徐々に屈強に立たされるようになる。
これによりいよいよソ連軍によってサムスン市が占領され、ジェソボイは拘束、キプロス島へ流罪とされた。
この時、「トルコ共和国は今や風前の灯であり、ソ連に反抗して改革を打ち立てねばならなかった。その為、アナトリアテュルク国家の国父であるムスタファ大パシャの手法を用いてまた新たな『第三トルコ』を建国し、アナトリアテュルク国家の立て直しを図るつもりだった」と自らが語っている。
ケバブへの亡命
1983年8月2日、キプロス島南部、東地中海に面しているリマソール軍事刑務所に収容されていたジェソボイは共に収容されていたトルコクーデターを戦った旧友・シェヴケト・トゥルグート、ジェヴァート・パシャ、ムスタファ・フェヴズィと共にリマソール軍事刑務所のあらゆる要所のセキュリティーを停止させ、モーターボートで東地中海を経由して近くを通りかかったケバブ帝国の民間船で保護された。
ケバブ帝国は当時対ソ連の一環としてソ連と戦ったトルコの人物を何としても欲していた為、8月16日にケバブ帝国領内アラビアで保護された時も優遇をされ、ジェソボイ自身も「身の安全を保護できるならソ連の編成についての情報を喋る」と条件を出して証言に応じた。
9月21日に当時のケバブ帝国皇帝・ゲバブ9世と今後の方針についての会談を済ませてからエルサレム国際空港のホテルでしばらく亡命生活を過ごした。ケバブ帝国政府はソ連外交官よりジェソボイらの身柄の引き渡しを要求されても全く応じなかったと言われる。
1983年10月21日に現地住民の偏見から自らを避ける為、姓名をロシア風の「ルイラ・ザメンホーフ」へと変更し、それと同時にエスペラントを学習した。

その後はしばらくアラビア半島内部、タプク市郊外の政府に用意された別荘で生活を送り、ケバブ帝国が極東シベリアを回復した後は身柄の安全を求め、なるべく遠くへ向かう為、政治難民の申請を行い、1984年2月12日、承認されるとマガダン市の用意された住宅に移り住んだ。
『全テュルク国粋連盟』の結成
1984年4月16日、『テュルクの鉄と血』の旧メンバー達や、旧ユルドゥルム軍団の兵士で構成された「トルコ政治難民団」は、ケバブ帝国内の軍政局より結集命令が掛けられ、「政治難民保護法」の元に政治難民が解除された。
これを利用して、行動の制限が解放されたザメンホーフらは1985年3月27日にミールヌイ村郊外で軍閥を形成し、『全テュルク国粋連盟』を結成した。
ザメンホーフは、全テュルク人民の団結と全体主義の信条を積極的にケバブ帝国内のメディアで述べ、一大勢力を西部シベリアで形成していったのである。
1987年のモスクワ会談後はソ連の弱体化を睨み、本部をセロフへ移転、スペイン内戦への軍隊派遣や英土戦争でのトルコ側支援など、政治的な活動を現在でも行っている。

ザメンホーフ主義

レイラ・ザメンホーフは50年代〜70年代のトルコ共和国を献身的に支えたほか、テュルク民族によるテュルク民族の支配領域の自治と、イスラームへの反抗は、他の政治的改革の挫折者と比較すれば、比較的上手く国家を安定させることに成功した。
また、彼の軍事的才能も手腕の一つであり、コーカサス戦線のソ連軍の猛攻を阻止できたことはWW2以降の近代戦で最も賞賛される戦いとして、数々の専門家・評論家が口走っている。クーデター未遂の際、ザメンホーフが叫んだ「我が肉体は滅んでも、テュルクは未だここにあり」という言葉は彼のテュルク主義を体現したものとしてよく話題に出される。
彼が50年代の軍需大臣就任〜70年代のクーデター未遂、80年代〜のテュルク国粋連盟の思想・政治路線は世間一般では「ザメンホリズム」「ジェソボリズム」と呼ばれている。

イスラーム主義者による批判

ザメンホーフが酒を好んだこと、イスラーム派への抑圧などからイスラーム主義者の中にはザメンホーフを背教者を意味するカーフィル(トルコ訛:キャーフィル)と非難する者も存在している。

逸話

アメリカ南部事変のレジスタンス側に参加し、遊撃戦や海上封鎖を提案したことがある。
フリーメイソンの会員であり、オーストリア内戦の際フリーメイソン側に注力していたと報告されている。
アラン・スミシーとも交流があり、アメリカ南部事変でも同じレジスタンスだった。ザメンホーフがアバラマ州のある酒場で「テロとは一体どういうものなのだね」とスミシーに聞くと、スミシーは帽子を取り「自分にとっての心さ」と答えたと言う。

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